新 府
(山梨県韮崎市)
Shinpu
2016年7月23日
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2016年夏、青春18きっぷの利用可能期間に入って最初の土曜日である7月23日に早速1回目を使った。
その目的地は・・・

中央本線の小淵沢行き普通列車から下車した、
この駅は山梨県韮崎市の新府駅。
ホームの東京方には149と記された
キロポストがある。
新府駅は無人駅で、簡易Suica改札機も自動券売機もない。
ここから乗車する場合は、申し訳程度の屋根の下にある乗車駅証明書発行機で
乗車駅証明書を入手し、列車内または下車駅で現金精算する。
また、東京近郊区間に含まれるため、通常の乗車券での途中下車はできない。
今回の旅みたいに青春18きっぷのようなフリーきっぷが有効であれば
そのようなことを気にする必要もないのだが。
新府駅からは西に向かって歩く。
途中、中條上野公民館そばのY字分岐は右側を進む。
その先の見晴らしの良い場所で足を止めて撮影。
さらに進むと、舗装道の左脇に
石造の鳥居。
額には「正一位稲荷大明神」と刻まれている。
鳥居をくぐり、階段を下る。
右の画像は階段を下りきってから
振り返って撮影したもの。
神社への参道を進む。
左右に池の跡があり、特に右側の池は「首洗池」という名がついている。
山梨県道17号を横切ると、その奥が本日最初の目的地である新府城跡。
現地の説明板によると、正式には「新府中韮崎城」と称し、天正9年(1581年)に
武田勝頼が躑躅崎(甲府市の、現在武田神社がある辺り)に代わる
「新たな甲斐の府中」として真田昌幸を奉行として七里岩の南端に築かせたという。
12月に躑躅が崎から本拠をここに移した武田勝頼だったが、
翌天正10年3月に戦局の悪化に伴い、新府城に拠って戦うこともなく
火を放って退去した。
その後、甲斐の支配を巡って徳川と北条が争った際に
徳川方が新府城を修築して本陣とし、北条との戦いを有利に進めたという。
なお、ご覧の通り県道には横断歩道がなく、車の通行も少なくないので
現地を訪れて道を横断する際は十分に注意されたい。
県道脇から延びる急な石段を上ると、朱塗りの鳥居に迎えられる。
額には「新府藤武神社」とある。
新府城跡は現在、藤武神社の境内となっている。
この鳥居がある辺りは帯曲輪だったという。
右手にはきつい階段を上れない人用に
「乙女坂」という緩やかな坂の参道がある。
運動不足で鈍っている体を無理やり動かして石段を上り、
冠木門のようなゲートをくぐると・・・
きつい石段はここまで。「乙女坂」もここが終点。
ここは「稲荷曲輪」だったらしい。
正面には藤武神社の拝殿・本殿が鎮座する。
左側にあるのは舞台だろうか。
拝殿の脇を抜けると、
そこが新府城の「本丸」。
右に進むと・・・
武田勝頼公霊社がある。
その両脇には「長篠役陣歿将士之墓」と称した小塚・大塚があり、
長篠・設楽原で討死した14人の武将の名が記された「霊位」も建てられている。
(14人の武将とは五味與惣兵衛貞氏、小山田五郎兵衛昌輝、眞田兵部丞昌輝、眞田源太左衛門信綱、坂源五郎昌澄、山県三郎兵衛昌景、馬場美濃守信房、
武田兵庫頭信実、原隼人佐昌胤、内藤修理亮昌豊、坂又八郎助宣、土屋右衛門尉昌次、甘利郷左衛門信康、横田十郎兵衛康景)
「長篠設楽原陣歿将士分骨之碑」。
「甲斐國主武田氏四百年追遠之碑」。
「甲斐國主武田氏四百年追遠之碑」前から見た「本丸」跡。
なお、新府城跡で遭遇した人は石段ですれ違った1組の老夫婦を除いて、
虫取り網を持った子供と付き添いの親ばかりだった。
ここは地元の子供たちにとって虫取りのメッカなのだろうか。
「本丸」の中ほどに窪地があり、
その中には小さな「赤備え」の祠が。
窪地が池の跡だとすると、
弁財天でも祀っていたのだろうか。
「本丸」の南西にある緩やかな坂を下る。
奥に見えるのが「蔀(しとみ)の構」だろうか。
途中の分岐で
「二の丸↑」と書かれた案内板のほうへ。
「二の丸」は藪に覆われていた。
奥には搦手方面への道があるようだが、
藪漕ぎを強いられるので今回は諦めた。
この先には「馬出」があるようだが、
実態は右画像の通り。
斜面を下って先ほどの道に復帰。
少し進んで「馬出↑」の看板のところで
振り返って右の画像を撮影。
「西三の丸」。ここも結構な広さのようだが、一面の藪。
南側に回り込んだところで「西三の丸↑」の看板。
とはいっても、こちらからだと強引に斜面を登って藪に突っ込まないといけない。
上の画像の通り、西側からのほうが進入は容易である。
「西三の丸」と「東三の丸」を仕切る土塁。 「東三の丸」もやはり一面の藪。
「東三の丸」を通過すると、南側に開けたスペースが。
道を外れて見に行ってみる。
ここは大手門を監視する望楼があったらしい。
現状では木々に阻まれて見通せないが・・・。
むしろ現状では
その先にある区画のほうが
眺めは良い。
もっとも、右の画像のように
遠くはある程度見えるが、
近くはこの下にあるはずの
三日月堀さえ見えない状態だが。
振り返って、望楼のあった区画を見る。
道に戻って下り坂を少し進んだところで
「東三の丸↑」の看板登場。
ここからはまず登れないし、
坂道の進行方向とも違う。
さらに下ると、道から外れたところに
「南大手門↑」の看板。
まだ時間はあるので進んでみるが・・・
この、藪に覆われた道(?)の先が
本当に大手門跡なのだろうか。
右手には望楼があったのだろうが、
現状ではとても監視できるような状態ではない。
何かしらの被害を受ける前に
さっさと引き上げてきた。
右画像で引き上げてきた道の延長線上に見えるのは
朱塗りの鳥居が建つ帯曲輪。
緩やかな坂を下り切ると、県道17号に合流する。
通ってきた道は車も通れる幅だが、
一般の車両は通行禁止。
(入れないように鎖が張られている。)
復路は途中鳥居をくぐらず、別経路をとったが、
中條上野公民館前で往路の道に合流。
しばらく歩くと中央本線の施設が見えてきた。
新府駅の函渠をくぐると、
高尾方面乗り場への階段そばに
石造の小祠や仏像などが数点あった。
小淵沢・松本方面のホームで列車を待つ。
やってきた松本行き普通列車で
次の目的地へ。

新円町発2015列車の旅
-Travel on 2015 Train from New Yen Town-
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