旅の記録2017
松 本
その2:城山公園(犬甘城跡)、正麟寺
[長野県松本市]
Matsumoto
Part 2:Jōyama park(site of Inukai castle), Shōrinji temple
2017年7月15日(1日目)
<松 本その1 乗 鞍>

7/15-16 松本・乗鞍への旅
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松 本1 乗 鞍 松 本3

旧開智学校・旧司祭館の見学を終えると、中央図書館の脇を通って西に進む。
「城山公園入口」交差点を通過し、緩やかな下り坂の先にある、正麟寺前の五差路まで来た。
次の目的地、城山公園(じょうやまこうえん)の方向を示す道標の先は・・・

どこまでも続くように見えるきつい上り坂。
少し躊躇したが、覚悟を決めて上り始めた。
上り切ったところはまたも五差路。
南を向くと、(こちらも)きつい下り坂の向こうに松本の市街地が見えた。
先ほどまで上ってきた坂。
いかにも公園入口のような雰囲気を醸し出している北西の道を上る。
しかし、その道は途中から単なる芝生の斜面に。
そして、上った先は未だ城山公園の外。
どうやら右上の画像で西に進んだ場合の道をショートカットしただけらしい。
傾斜はだいぶましになったものの、だらだらと続く上り坂を歩き続けると・・・
ようやく城山公園の入口に到着。
ここは「犬甘城(いぬかいじょう)」の跡で、現地にある案内図によると、南北に長い公園のうち、そこそこ幅のある道を挟んで西側に一の郭から六の郭まであり、東側には「中央広場」などに整備されていて遺構はないようだ。
また、園内にはいくつか句碑や歌碑があるようだが、特に興味もないので一部を除いて無視した。
犬甘城は南北朝時代から信濃守護の小笠原氏が林城の支城の一つとして治めていた。
江戸時代になって城として使われなくなってからも松本藩が管理し、江戸末期に開放されるまでは庶民の立ち入りは禁止されていた。
園内に入り、公園中央を南北に貫く道との交差点に来た。
ここから見る限り、城跡のような雰囲気はあまり感じられないが・・・。
左画像に見える石碑は「摂政宮殿下ご成婚記念」。
また、左に見える松の木2本はおそらく病気にかかっているのではないかと思うくらい葉が変色している。
城山稲荷神社。
現地の説明板によると、松本藩4代藩主松平直政が尊崇し、寛永15年(西暦1638年)に松江に移封される際には当社を分祀して松江に迎え守護神にしたという。
その神社は現在の松江神社であると記されているが、2012年に松江を訪れた際に松江神社にあった説明板では、「寛永5年(西暦1628年)に堀尾忠晴が創建した東照宮」と「明治10年に松平直政を祭神として創建された楽山神社」を明治32年に合祀した上で現在地に遷座したとあった。
松江城には「城山稲荷神社」もあり、そちらの説明板には「松平直政が藩主として入国した翌年に、かねて信仰していた稲荷大神を出雲隠岐両国の守護神として城内に祀られた」と記されていたことから、実際の分祀先は松江神社ではなく、(松江城内の)城山稲荷神社であろう。
それでは犬甘城跡を見ていく。
まず、一番南にある六の郭。
いわさきちひろの記念碑と展望台がある。
市街地を歩き回った上にあの上り坂で、これ以上の上りは明日にも影響しかねないことから展望台には登らなかった。
六の郭から五の郭を見る。
六の郭と五の郭の間は堀切のようなもので仕切られていた。
五の郭。
城山稲荷神社の裏にあたる。
左画像の右端、および右画像の左端に見える通り、ここの城山稲荷神社には神社によくある立派な本殿はなく、小さな祠だけが鎮座していた(その手前にあった建物が「拝殿」かもしれない)。
そして、五の郭には戊辰戦争の際に高田で戦死したという松本藩士・森曽藤次重之の慰霊碑がある。
戊辰戦争で松本藩は3名が戦死したらしいが、そのうちの1名。
他の2名分も市内のいずこかにあるのだろうか。
「摂政宮殿下ご成婚記念」碑の裏を通ると、四の郭の手前に堀というより花壇のような水路が造られていた。
シーズンではないからか(それとも本当に何にも植えられていないからか)、特に見どころもない水路に架かる小さな石橋を渡り、四の郭へ。
四の郭。
南側が小高くなっている。
堀切から西側を見る。 四の郭の北側にある堀切。 堀切から東側を見る。
次の郭への階段を上る。
振り返って四の郭を見る。
ここは四の郭の次なので三の郭だと思った(現地の案内図でもそのように見える)が、実際は二の郭である。
そして、こちらの帯曲輪のような場所(左の画像から右奥に降りたところ)が三の郭。
北側から三の郭を見る。
なお、この画像を撮影した場所の背後には吉江狐雁の詩碑がある。
二の郭にある、「城山公園開放の碑」。
天保14年(西暦1843年)に松本藩主戸田光庸がこの地を公園として領民に開放したことを記念したもので、嘉永3年(西暦1850年)に建てられた。
香川景恒が由緒と一首の歌を記していることから、現地の案内図では「香川景恒歌碑」と書かれている。
「城山公園開放の碑」の右から斜面を上ると・・・
香川景恒は桂園派の祖といわれる香川景樹の子で、京都にて公卿徳大寺家に仕え、従六位上陸奥介に叙せられた。
一の郭に到着。
南東側(「城山公園開放の碑」の裏側)がわずかに盛り上がっているほかはほぼ平坦。
一の郭北側から南を見る。
一の郭から二の郭を見る。
最後に、城山公園を去る前に東側からもう一度犬甘城跡の各郭を見た。
下りはショートカットルートではなく、車も通る傾斜が緩やかな道を歩いた。
南側の、松本市街地の眺めはなかなかよく、頑張って坂を上ってきた甲斐はあった。
正麟寺まで戻ってきた。
正麟寺は曹洞宗の禅寺で、山号は鳳来山(ほうらいざん)。
現地の説明板によると、当初の寺号は少林寺で、小笠原長時の菩提寺となった際に長時の法名に因んで現在の寺号となったというが、特に小笠原家ゆかりのものはなさそうだった。
しかし、説明板の「墓地には川島芳子の墓がある」という記載が気になって墓地へ向かった。
川島芳子は清の皇族・愛新覚羅家の一族で、粛親王(しゅくしんおう)善耆(ぜんき)の第14王女として生まれ、元の名前は顕㺭(けんし)。
大正3年に旧松本藩士川島浪速の養子となり浅間温泉に移住、松本高等女学校(現在の松本蟻ケ崎高校)に通った。
実父の後を継いで清朝の再興・満蒙の独立を図り、金璧輝と名乗って日本軍に協力してスパイ活動を行ったことから「東洋のマタ・ハリ」、断髪して男装していたことから「男装の麗人」とも呼ばれた。
戦後の昭和23年に国民党軍に捕らえられ、国賊として銃殺された。享年42。
案内図に従って墓地内の道を進むと、実際にあった墓は元々養父である「国士 川島浪速」の墓で、夫人と芳子が併せて葬られていた。

この後は「城山公園入口」交差点まで戻って南下し、「蟻ケ崎高校前」バス停から周遊バス「タウンスニーカー」に乗って松本駅前へ(ここでようやく「上高地・乗鞍2デーフリーパスポート」を初めて使用)。
午後6時頃に駅ビルの「松本からあげセンター」で夕食として「デラックス山賊焼定食セット」(山賊焼+ミニラーメン+ごはんなど)を食べると、早々と駅前のホテルにチェックインした。
<2日目:乗鞍に続く>


新円町発2015列車の旅
-Travel on 2015 Train from New Yen Town-
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