設楽原
[愛知県新城市]
Shitaragahara
2017年8月10日(1日目)
(その1)白 河 1-1 2-1奈良井1>

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豊橋から飯田線の天竜峡行き普通列車に乗車した。
旅行当時の昼間ダイヤで、飯田線の豊橋を発着する普通列車は1時間に上下4本ずつ(ほぼ15分に1本)あったが、うち2本は豊川止まり・豊川始発、1本は新城止まり・新城始発。
新城より先は1時間に1本だけしかない。
当初計画では先に三河一宮で下車して、三河国一宮の砥鹿神社や一宮砦跡を見てから再び飯田線で三河東郷に向かう予定だった。
しかし、それをやるためにはダイヤの関係上1時間以内で駅に戻ってこないといけない。
間に合わないと最大1時間待たされ、大幅なタイムロスとなるだけでなく、入館予定の施設に入れないおそれもある(砥鹿神社や一宮砦跡はそのような時間制限はない)。
以上のリスクを考慮して、三河一宮では下車せずにそのまま三河東郷へ直行した。

三河東郷駅で下車し、天竜峡行き普通列車を見送る。
線路の傍らには豊橋起点25kmのキロポストがある。
三河東郷駅の駅舎は待合スペースしかない無人駅仕様だが、愛知県道439号(伊那街道)側に馬防柵を模した木柵が立てられ、そこに「JR三河東郷駅」と記された木板を取り付けている。
駅の西にある踏切を通って北へ進むと、最初の十字路に道標が。
「右 首洗池を経て信玄塚に至る」
「左 設楽原決戦場」
信玄塚という道標もあってやけに信玄塚が推されているものの、選択した道は左。
国道151号(新城バイパス)との交点「設楽原歴史資料館南」を過ぎると、右手に右画像のような案内看板と細道が。
傍らの石標には
「ここより火おんどり坂 山県昌景公の墓を経て信玄塚へ至る」
と刻まれており、この道の先も信玄塚に達するようだ。
「火おんどり坂」を上ると、右手にそれらしき場所が見えてきた。
左画像の石祠などが山県昌景に関係あるかは不明だが、右画像の石碑群が山県昌景と関係者の墓とされている場所である。
左から「山縣三郎兵衛昌景之碑」、「山縣義士」、宝篋印塔を挟んで「山縣甚太郎昌次 従士名取又左エ門道忠之墓」、一番右が「高坂又八郎助宣之墓」。
山県昌次は昌景の嫡子とされている人物、高坂助宣は高坂昌信の一族とされている人物。
昌景と助宣については新府城跡(山梨県韮崎市)に「霊位」が建てられている。
この先に進むと信玄塚に行けるらしいが、信玄塚は目的地ではないので来た道を引き返した。
阿弥陀堂のある分岐点で右折。
奥には新東名高速道路が見える。
そして、その手前には・・・
設楽原の戦いで徳川軍が構築した馬防柵の一部が再現されている。
坂の途中には小幡上総介信貞の墓がある。
坂を上り切った先はなんと信玄塚。
信玄塚は設楽原の戦いの後に地元民が戦死者を葬ったところである。
山県昌景の墓から奥に伸びていた道はこちら。
信玄塚は小塚と大塚があり、こちらは小塚。
こちらが大塚。
信玄塚の隣接地は墓地になっており、多数の墓石や仏塔が建っていた。
また、8月15日に設楽原での戦死者の霊を弔う「火おんどり」の準備が行われていた。
5日後(8月15日)に行われた「信玄原の火おんどり」の様子はこちら
信玄塚(大塚)のすぐそばには閻魔堂がある。
大塚の裏を通ると、設楽原歴史資料館(入館料300円)に到着。
入口前には幕末に開国(日米修好通商条約調印)と横浜の開港に尽力した岩瀬肥後守忠震の銅像が建っている。
館内では設楽原の戦いと岩瀬忠震についての説明、そして現存最古と思われるものを含む多数の火縄銃が展示されている。
屋上には設楽原の地形が縮小されて再現されているほか、古戦場を望むことができる。
設楽原歴史資料館での見学を終え、次の場所へ。
北側の入口には新城市のコミュニティバス「Sバス」(北部線)の歴史資料館停留所がある。
1乗車200円で、東新町駅・新城駅経由新城郵便局行きと大海駅経由緑が丘行きがそれぞれ1日5本運行されている。
ただし、あくまで地域住民向けなので平日のみ運行、車両が定員10名のジャンボタクシーであることに注意。
※上記は訪問時点(2017年8月10日時点)の情報であり、今後変わる可能性がある。
東郷中こども園の東側を回り込むと、半分緑に覆われた空き地の奥に築山のようなものが。
築山の上には全国各地にある「招魂碑」。
傍らには「設楽原の戦い 武田勝頼公指揮の地」と刻まれた石碑がある。
山梨県東山梨郡大和村(現在の甲州市)の武田勝頼公顕彰会によって、大和村特産の甲州鞍馬石を用いて平成5年に建立したという。
築山の裏にある横田備中守綱松の墓。
設楽原では息子3人ともども討ち死にしたという。
「設楽原の戦い 武田勝頼公指揮の地」碑のさらに奥にある内藤修理亮昌豊の墓。
こども園の裏から引き返し、今度は西へ。
十字路の一角には甘利郷左衛門信康の碑がある。
豊川の支流・連吾川に架かる柳田橋を渡る。
左画像は下流方向(南)、右画像は上流方向(北)を橋の中ほどから撮影。
なお、この柳田橋東詰には「柳田前激戦地」の標柱(中画像の左側)が建っており、設楽原の戦いにおける激戦地の1つであったらしい。
柳田橋を渡ると、馬防柵再現地はもう近い。
「長篠・設楽原合戦屏風絵図」のレプリカがあるところで右折し、細い道を進むと・・・
馬防柵再現地に到着。
昭和57年に地域振興補助事業として再現された長さ160mの馬防柵は、地元の「設楽原をまもる会」によって毎年少しずつ修復することで維持されているという。
<参考:ブログ「新城・勝手に応援隊」の2017年1月24日付の記事
なお、現地の説明板によると、設楽原の戦いにおいて構築された馬防柵は約2kmにおよぶものだったらしい。
三河東郷駅前にあった案内図によると、設楽原の戦いにおいてこのあたりには徳川軍の石川数正隊が陣を構えていたらしい。
また、現地の説明板によると、連吾川に向かって右側は徳川軍の、左側は織田軍のものを区別して構築したという。
再現地の北端には「土屋右衛門尉昌次戦死之地」碑が建っている。
また、再現地の北端には乾堀と馬防柵と銃眼付きの身隠し(土塁)からなる名和式の「鉄砲構え」も復原されていた。
再現地の北端から南を見て撮影すると、三河東郷駅へ戻ることにした。
信玄塚の東で、土屋昌次の供養碑がある辺りを探してみたものの見つけられず、諦めて駅ヘ向かう途中の1枚。
「牧野文齋記念公園 信玄病院跡地」碑が建っている。
牧野文齋は代々吉田藩の藩医を務める家に生まれた。
明治42年に東三河で唯一の総合病院だった信玄病院の院長に就任。
医業の傍ら私費で図書館を開館したり長篠・設楽原を中心とした郷土研究・史跡保存に尽力した。
信玄病院跡地からさらに南下すると、国道151号との「竹広」交差点の一角に「首洗池」があった。
長篠・設楽原の戦いの際に戦死者の首を洗ったという由来が現地の説明板に記されているものの、この四角い形は後世になって作り直したとしか見えない。
なお、新府城跡そばにも同名の「首洗池」がある。
三河東郷駅前まで戻ってきた。
駅前には聖堂山勝楽寺(曹洞宗)がある。
三河東郷駅から豊橋行き普通列車(550M)に乗車。
三河一宮駅の着時刻は17:25。
この時期ならまだ明るいので砥鹿神社や一宮砦跡を見に行くことはできたが、明日以降のことを考えてキャンセル。
そのまま豊橋に向かった。
豊橋からは大垣行き特別快速(2123F)で名古屋へ。
名古屋駅5・6番線ホームのきしめん屋で冷やしきしめんを食べてからホテルにチェックインした。

新円町発2015列車の旅
-Travel on 2015 Train from New Yen Town-
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