旅の記録2017
豊 川
[愛知県豊川市]
Toyokawa
2017年3月18日(1日目)
東海道>

2017年(平成29年)最初の泊りがけの旅は愛知県への1泊2日の旅。
最近訪れることが多い愛知県だが、
興味がありながらまだ行ったことのない場所はたくさんある。
豊川稲荷こと妙厳寺もその1つ。
なお、3月18日・19日・20日は土曜日曜祝日(春分の日)の3連休なのだが、
2泊3日にしてしまうと春分の日の翌日に
旅の疲れを残したまま出勤することになってしまうため、土日の1泊2日とした。
3月18日土曜日、新横浜から(豊橋までノンストップの)新大阪行きひかり505号に乗車。
豊橋で飯田線の新城行き普通列車(船町・下地は通過)に乗り換え。
豊川稲荷が目的地なら最寄り駅は豊川だが、新城行き普通列車から下車したのは1つ手前の牛久保駅。
それは豊川稲荷以外にも見たいところが多くあり、最初の1つは牛久保駅のすぐそばにあったから。
それは遠藤整骨院ではなく「牛久保城跡」。
といっても、「牛久保城址」の碑と由来不明の祠、それに城と関係ない水利組合や耕地整理組合の記念碑があるだけで、遺構は皆無。
「牛久保城跡」を後にして北西へ進む。
2015年9月のストリートビュー(←)ではこのあたり(牛久保百貨センターお客様専用駐車場)に「山本勘助養父屋敷跡(大林勘左衛門貞次屋敷跡)」の標柱が立っていたのだが、なくなっていた。
※右画像は南東方向を向いて撮影
2か所目は武運山長谷寺。
境内には山本勘助の墓(五輪塔)があるという。
大河ドラマ「風林火山」が放送されていた頃は賑わっただろうが、今はひっそりと静まっている。
摩利支天堂。
山本勘助が襟に掛けて守り本尊にしていたという摩利支天像が安置されている。
そして、摩利支天堂の左を通り抜けると・・・
山本勘助の墓(五輪塔)がある。
勘助が川中島で討ち死にした後、勘助と親交のあった念宗和尚が勘助の遺髪を納めて建立したという。
さらに北西へ進み、「千歳通四丁目」交差点で左折。
千歳通を西に進むと石鳥居が見えた。
鳥居の奥には牛久保八幡宮の末社・天王社がある。
その隣には「牧野成定公廟」がある。
牧野成定は弘治2年(西暦1556年)頃に牛久保城主牧野氏の家督を継ぎ、
永禄9年(西暦1566年)に松平家康(後の徳川家康)に臣従したが同年に没している。
成定が葬られたこの廟を含めた周辺はかつて光輝院の境内だったが、
道路の開通などにより光輝院の寺域が縮小され、
廟のみが道路の北に取り残される形となった。
なお、光輝院は道路や薬局、住宅などを挟んで南側に現存している。
来た道を引き返し、牛久保センター前の丁字路を左折して東に進むと、寺町公園の入口に「山本勘助養父屋敷跡(大林勘左衛門貞次屋敷跡)」の標柱が。
寺町公園は少し広い公園だが、屋敷跡に関するものは皆無だった。
愛知県道495号を横切って南東に進むと、大河ドラマ「風林火山」放送時に整備されたのか、「今川義元公の墓 大聖寺」の道標が。
道標の先には「今川義元公御廟所」こと牛頭山大聖寺があった。
今川義元の墓は左画像の細道の奥にある。
なお、道の脇にある看板には、この寺が旧一色城の郭内であることが書かれていた。
事前には、次に訪れる場所だけが一色城跡だという情報しかなかったので、うれしい誤算だった。
門をくぐった先の様子。画像奥が今川義元の墓。
右奥に見えるものと、左の木に隠れてしまったものは後述する。
今川義元の墓。
永禄3年のいわゆる「桶狭間の戦い」で首をとられた義元の遺体を家臣がこの寺まで運び、手水鉢を墓石代わりにして葬ったという。
現在も一番下には石の手水鉢がある。
大聖寺の外周にある土塁は一色城の名残であろうか。
木の陰に隠れていたものは一色時家(刑部少輔)の墓。
一色刑部は永享11年(西暦1439年)、吉良からここ(当時は宝飯郡長山村)に移ってきて一色城を築城した。
その際、ここの窪地に大牛が横臥していたという因縁から城内に牛頭天王を祀るために建てたのが牛頭山大聖寺であるという。
文明9年(西暦1477年)に被官の波多野全慶に弑された。
一色刑部は鎌倉公方足利持氏の臣として偏諱を受け、刑部大輔持家と名乗っていたという説もある。
なお、一色刑部を滅ぼした波多野全慶も16年後に同じく一色氏の被官だった牧野成時(古伯)に討たれた。
その後牧野成時は永正2年(西暦1505年)に今橋城(後の吉田城、豊橋市)を築いて移り、
後釜となった次男の牧野成勝は現在の牛久保駅一帯に牛久保城を築いたため、
一色城は城としての役目を終え、大聖寺のみが現在まで残っているという。
大聖寺の歴代住職の墓である無縫塔。
左が一色刑部の墓、右が今川義元の墓(胴塚)。
大聖寺のすぐ東にある「松尾かじや」。
その敷地内、画像の右にあるのが・・・
一色城の土塁(外壁)の跡。
一色城土塁跡から愛知県道495号に出て歩くこと26分、ようやく豊川稲荷に到着。
総門をくぐる。
大きな石鳥居をくぐり、
大本殿で参拝。
万燈堂。
豊臣秀吉の念持仏と伝えられている不動明王像、文殊菩薩像が奉祀されている。
奥の院。
大本殿の新築に伴い、旧本殿の拝殿と内陣を移築したという。
「伊藤蒲邨翁筆塚」。
伊藤蒲邨は大般若経600巻を書写して豊川稲荷に寄進したという。
奥の院より奥まったところへの道。
その先には・・・
狐の石像がたくさんある、ここは 霊狐塚(きつね塚)。 さざれ石のような岩の上にも狐の像・
最後は山門をくぐり、通用門から出た。
この山門は天文5年(西暦1536年)に今川義元が寄進したという、豊川稲荷で現存最古の建造物。
豊川稲荷を後にすると、愛知県道31号を北西へ。
しばらく進んで、名もない十字路を右折すると、そこにあるのは「桜木公園」というごく普通の公園。
しかし・・・
背の低い鉄柵の反対側には
「工」印の標柱が大量に寝かされていた。
そして、JR豊川駅から延びてきた日本車輌製造専用線と鉄柵の間に不自然な空き地が広がっている。
日車専用線の前身は豊川海軍工廠への物資輸送を目的とした
豊川鉄道の支線(後の飯田線西豊川支線)で、
ここは西豊川駅があった場所だといわれている。
なお、一般客用としては西豊川駅が終点だが、
海軍工廠の従業員は工廠内の乗降場まで乗ることができたらしい。
このあたりは少しだけ高くなっている。
ここで乗降を行っていたのだろうか。
「駅構内」には豊川駅起点2kmのキロポストがある。
(画像やや左)
佐奈川を渡る専用線。
橋の名はそのまま「佐奈川橋梁」。
豊川駅起点2.629kmに位置する。
川の両岸には油通(豊川駅寄り)、佐奈川(工場寄り)の踏切がある。
佐奈川は流域のほとんどが豊川市内で、河口付近のみ豊橋市。音羽川や豊川が近くを流れるが、それらには合流せずに三河湾に注ぐ。
線路内は立入禁止のため、少し上流の荒古橋を渡って右岸に回る。
荒古橋から佐奈川(下流方面)を撮影。
右岸の佐奈川踏切から撮影。
左画像は日車の工場方面、右画像は豊川駅方面(佐奈川橋梁)。
河川敷に降りて撮影。
佐奈川橋梁の下で撮影。
左画像は右岸の橋台、右画像は橋桁と右岸寄りの橋脚。
荒古橋の北詰まで戻ってから西に進む。
専用線に合流してしばらく進むと傍らに、残った部分のうち下半分がコンクリート、上半分が煉瓦という柱が立っていた。
海軍工廠の門だったという説もあるが真偽は不明。
煉瓦+コンクリ柱から少し先に(豊川駅起点)2.5kmのキロポスト。
さらに西に進むと、専用線は緩い左カーブの後引き込み線2本を分岐し、
「工場」踏切を通って東門から工場敷地内に入る。
なお、工場内および工場踏切の両側には「撮影禁止」の警告看板がある。
東門からは名鉄の新型車両(形式は不明)やN700A新幹線車両が見えたが、
警告があるため撮影は自重した。
陸上自衛隊豊川駐屯地の南を通り、開運橋を渡る。
右画像は開運橋から佐奈川の上流方向を撮影。
豊川稲荷の南を通り、「赤いきつね」の像があるロータリーに到着。 JR飯田線の豊川駅(西口)。 名鉄豊川線の終点・豊川稲荷駅。

豊川稲荷駅から名鉄一宮行き急行に乗って、次の目的地へ。


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