2泊3日三重県縦断の旅
桑 名
Kuwana
2015年3月27日(1日目)
四日市>
[2015/3/27-29]2泊3日三重県縦断の旅
桑 名 四日市 鳥 羽1 伊勢市 田 丸1 松 阪1 名古屋
鳥 羽2 田 丸2 松 阪2

2015年3月は昨年に続き前半で残業が続いたので、月間勤務時間の調整のため26日・27日の2日分休暇をいただいた。
26日〜29日で4連休となったので、26日を準備に充てて27日〜29日の2泊3日で旅行を計画した。
3月27日(金)、新横浜から新大阪行きのぞみ213号で名古屋へ。

名古屋からは関西本線の四日市行き普通列車で
最初の目的地・桑名に到着。
桑名駅はJR関西本線と近鉄名古屋線・養老鉄道の駅が
隣接しており、JRと近鉄の間に中間改札はない。
桑名駅から東に歩くと、
八間通交差点で国道1号を横切る。
さらに東へ進んだところで、進行方向左手に
「薩摩義士墓所」の文字がついたアーチを見かけた。
「寳暦治水薩摩義士之墓」の石柱は見られるが、
ここから薩摩義士の墓には入れない。
薩摩義士の墓は法性山海蔵寺(曹洞宗)の境内にある。
こちらから入り、左へ進むと・・・
薩摩義士24名の墓がある
(うち3名分の墓碑は昭和41年の史跡指定時点で
湮滅していたが、平成6年に1基、平成16年に2基
再建された)。
中央奥に見える供養塔は総奉行平田靭負のもの。
なお、犬山城跡鹿児島市の鶴丸城跡そばには
薩摩義士の碑がある。
薩摩義士墓所のそばには
昭和51年に「治水観音」が建立されている。
岐阜県海津市の長良川と揖斐川の間に「千本松原」の
一部として植えられていた松の木の輪切り。
幹回り約352cm、樹高約29mで
保存活動に携わる人々から「守り松」と呼ばれていたが、
松くい虫の被害などにより枯れたため
平成18年に伐採されたらしい。
千本松原の松は寳暦治水工事の際に
薩摩義士によって植えられたとされており、
当地には治水神社や寳暦治水碑がある。
千本松原はこちら。
※千本松原には2016年に訪問している
田町交差点で左折し県道613号を北進すると、行く手にあったのは住吉神社。
正徳5年に住吉大社から勧請してこの地に建立され、今年でちょうど300年になる。
石灯籠には寄進の時期として「天明八戊申年十二月吉日」と刻まれている。
[←上流方面]住吉神社前から見た揖斐川。[下流(河口)方面→]
揖斐川防潮堤を下流方面に進むと、川口水門に突き当たった。ここが・・・
昨年訪れた熱田(宮)のものと対をなす、
東海道の海上部分「七里の渡し」における
桑名側の渡し場跡。
七里の渡し跡そばにある「歌行燈句碑」。
刻まれているのは久保田万太郎の
「かはをそに 火をぬすまれて あけやすき」。
桑名宿大塚本陣跡。現在は料亭「船津屋」が建つ。
かつての東海道に比定される道。
七里の渡し跡に戻ってきた。
なお、名古屋のNPO法人堀川まちネットによって
毎年10月末に「東海道七里の渡し船旅」が
行われているが、桑名側の発着地はここではなく
住吉神社南側(ここよりやや北西)にある船着き場。
水門統合管理所。かつてこの場所にあったという、桑名城の隅櫓の一つ「蟠龍櫓」の外観を推定復元した。
川口水門側から七里の渡し跡を撮影。 川口水門そばから水門統合管理所を撮影。
春日神社の銅鳥居(三重県指定有形文化財)。
寛文7年(西暦1667年)に桑名藩7代藩主
松平定重によって建てられた。
傍らにあるのは「しるべいし」。
迷子の情報共有に使われたことから
「迷い児石」とも称される。
「たづぬるかた」に迷子の特徴や服装を書いた紙を貼り、
「おしゆるかた」に目撃情報などを書いた紙を貼る。
鳥居と反対方向に進むと・・・ 中橋がある。
中橋が架かっているのは三の丸堀。城壁の石積みが現存していた。
三の丸堀に沿って、東海道五十三次をモチーフとした「歴史を語る公園」が造られている。
スタートは「にほんばし」。 右手に見えるのは推定比高約1.5メートルの「富士山」。
わずか7分で終点「三条大橋」に到着。
隣には普通の橋「南大手橋」が架かっている。
「三条大橋」から見た三の丸堀。 南大手橋より先の堀は埋められてしまっていた。
ようやく「九華公園」に到着。この堀は三の丸と二の丸を隔てる「二の丸堀」。
二の丸堀沿いに植えられている桜はある程度開花していたが、見頃はまだ先のようだった。
二の丸堀を隔てた向こうは二の丸跡。 二の丸橋を渡って、二の丸跡へ。
二の丸跡より、吉の丸堀に架かる橋と東屋を見る。 二の丸跡。櫓跡などの遺構は特にない。
別アングルで撮影した、
吉の丸堀の橋と中間にある東屋。
橋を渡った先は本丸で、左奥に
神戸城の天守が移築されたという神戸櫓跡、
橋を渡ってすぐのところに辰巳櫓跡がある。
辰巳櫓跡。その名の通り本丸の東南にあった三重の隅櫓。
元禄14年(西暦1701年)に本丸北東にあった天守が焼失して以来、この辰巳櫓が天守代わりだった。
そのため、戊辰戦争で桑名藩が新政府軍に降伏した際、新政府軍は降伏の証として辰巳櫓を焼き払ったという。
櫓跡にある大砲の由来は不明らしい。
辰巳櫓跡から二の丸跡を見る。 本丸跡。
本丸跡の北部には「鎭國守國神社」が鎮座する。
祭神は鎭國大明神
(松平定綱:本多忠勝から数えて5代目の桑名藩主)と
守國大明神(松平定信:15代藩主松平定永の父)。
鳥居をくぐって拝殿の右手奥に進むと、桑名城の天守台がある・・・が、
どうやら廃城前から残っているものではなく、後世になって規模を小さくして作り直した「模擬天守台」らしい。
その「模擬天守台」の上には幕末の藩主・松平定敬の撰・書による招魂碑が建てられている。
九華公園の北側では、徳川家康譜代の重臣にして桑名藩初代藩主である
本多忠勝の銅像が来訪者を見下ろしていた。
九華公園を後にすると、袖野山浄土寺(西山浄土宗)へ。 この寺には本多忠勝の本廟がある。
桑名市博物館。建物はかつて
百五銀行桑名支店として使われていたもの。
桑名市博物館前に設置されている、旧東海道筋に
建てられていたという道標(右 京いせ道|左 江戸道)。
桑名市博物館を見学した後、
「旧東海道」を進むと・・・
石取会館。
春日神社の祭りである石取祭についての展示がある。
建物は大正14年に四日市銀行桑名支店として
建築されたもので、国の登録有形文化財となっている。
県道613号を挟んで桑名市博物館の向かいには
「三重県電話発祥の地」がある。
明治33年4月に名古屋電話交換局桑名支局が
開設され、三重県で初めて電話交換業務が開始された。
コミュニティバスで桑名駅前に戻ってきた。
桑名駅に隣接する三岐鉄道北勢線の西桑名駅。
軌間は762mmの特殊狭軌(ナローゲージ)。
歩道橋から桑名駅に向かう途中、
近鉄特急「Ace」が桑名駅に入線。
歩道橋を進んで桑名駅に到着。
JR・近鉄共用の改札を通り、近鉄名古屋線のホームへ。
養老鉄道の桑名止まりの電車。
養老鉄道養老線ののりばは近鉄名古屋線と
同じホームだが、養老線が近鉄から切り離された後、
両者の間に仕切りと中間改札が設けられた。
宇治山田行き急行列車に乗って次の目的地へ。

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