旅の記録2016GW北陸編
高岡→金 沢
(その1:野田山墓地)
Takaoka→Kanazawa(Part 1:Nodayama)
2016年5月4日
<新湊大橋 金 沢(その2)

5月4日(水曜:みどりの日
チェックアウトも8時までという時間制限があるため
早めに朝食を取ってホテルをチェックアウト。
高岡は晴れていたが昨日に引き続き風が強かった。
7:42発金沢行き列車は
IRいしかわ鉄道の車両だった。

先に述べておきますが、今回の金沢訪問で
兼六園には行っていません。
金沢城公園も敷地内に入っていません。
さらに、博物館・美術館の有料スペースには入っていません。

今回金沢で使った金は
バス運賃760円<(280円×2)+(100×2)>
帰りの新幹線車両内で食べた駅弁2つ合計2250円
のみでした。

また、これより先デジタルカメラのタイムスタンプによる時刻を表示します。
背景色は残り時間(帰りの新幹線の発車時刻17:51まで)を表します。
11:30=残り6時間以上
13:30=残り3時間以上、6時間未満
15:30=残り1時間以上、3時間未満
17:30=残り1時間未満


さて、金沢駅に到着すると他の客と一緒に改札口へ。
改札口を抜けるとバス乗り場を探す。
まず西口に出るが見当たらない。

8:30
もてなしドームのある東口(兼六園口)に行くと、
10番のりばが目的のバスの乗り場らしい。
8:37
10番のりばでバスを待つ。
東口のバス乗り場には定期観光バスや周遊バスなどが
ひっきりなしに出入りしていた。
9:10
8:43発の[21系統 北陸学院大学行き]
北鉄バスに乗車。
香林坊や寺町を過ぎ、
新興住宅地と思われる場所にある
「野田東」停留所で下車。
9:14
石川県道22号(山側環状)を
野田トンネルの上に造られた歩道で越えると・・・
9:18
この日最初の目的地、野田山墓地に到着。
なお、一部の観光案内で最寄りのバス停が
1つ手前の「野田」となっているが、
「野田」バス停からの最短ルートだと
山側環状を信号つき横断歩道で渡ることになるため、
今回のように「野田東」で降りたほうが
信号待ちがなくてよい。
9:20
現地の説明板によると、野田山墓地は前田家が加賀百万石の太守となるより前、
現在の金沢城の場所に浄土真宗(本願寺派)の尾山御坊があった戦国時代から
地元住民に墓地として利用されていたらしい。
前田利家が兄の利久を野田山に葬り、後に利家も死後野田山に埋葬された。
以後歴代藩主・妻子及び重臣の墓地となり、
現在は金沢市営の墓地として一般市民の墓も多数ある。
坂の途中には前田利家の六男・利貞を祖とする分家の墓所入口があった。
9:26|9:28
さらに坂を上ると、
加賀八家と総称される、陪臣ながら
石高が一万石を越えた人持組頭(加賀藩の執政)
の一つ、奥村家(宗家)の墓所があった。
9:29|9:33
入ってみたものの、
墓碑の文字が読めなくなっていたり
墓碑が墳墓から落ちてしまっていたりで、
誰の墓かわかりそうなものは
数えるほどだった。
9:41|9:42
こちらは加賀八家の一つ、
前田土佐守家の墓所入口。
前田土佐守家は利家の次男利政を祖とする
分家で、歴代当主のうち4人の官途名が
土佐守だったことから、本家との区別のため
便宜的に土佐守家と称されている。
市街地には「前田土佐守家資料館」がある。
9:43|9:45
こちらもまともに読み取れる墓碑は少ない。
9:47|9:48
さらに奥に進むと・・・
9:54
『禅と日本文化』などの著書がある
金沢出身の仏教哲学者
鈴木大拙の墓(画像中央)がある。
生誕地近く(本多町3丁目)には彼の記念館
鈴木大拙館」がある。
9:55
鈴木大拙の墓近くにも
前田土佐守家一族および家臣のものと思われる
墳墓らしき土盛りがあった。
あまりにも低いので、
誤って踏みつけてしまった人がいるかもしれない。
9:59
坂を上り切ると、加賀藩主前田家墓所(国史跡)の
入口に到着。
10:00
手前左には篠原家の墓所入口がある。
篠原家は前田利家正室・芳春院の生家。
なお、画像右側に見える小さい石柱は
平成21年に前田家墓所が国史跡に指定された際に
設置された「史跡境界」標。
10:01|10:00
門を通過すると、
左には緩やかな上り坂、
正面には長くてきつそうな階段。
案内板も見た上で、前者を選択。
10:08|↑10:07|10:09
上り坂を進むと、すぐ右に藩主の娘や生母の墳墓がある。
10:16|↑10:15|10:16
その先はチェーンが張られていて通り抜けできなかった。
仕方なく引き返して階段へ。
10:20|10:21
階段を上るが、
やはり2日間でたまった疲労などもあり
足取りはゆっくりとならざるを得なかった。
そして途中で脇道にエスケープ。
道の先には・・・
10:26
第13代藩主・前田齊泰の墓。
藩主としての在位は40年余りに及んだ。
兼六園内の成巽閣は母の隠居所として造営。
正室・景徳院(第11代将軍・徳川家斉の21女)の
来嫁の際には江戸屋敷に赤門を造営した。
※藩主の代数は現地の説明板に従い、
利家を初代とする。以降も同様。
10:28
第14代藩主・前田慶寧の墓。
襲封して2年後に明治維新を迎えた、最後の藩主。
10:30
第15代・前田利嗣(侯爵)の墓。
10:31|10:32
先に進むと、左手に下り階段。
下に行く前に右手側の墓を見て回る。
10:32
第3代藩主・前田利常の正室(天コ院)の墓。
慶長4年(1599年)に後の江戸幕府第2代将軍・
徳川秀忠の次女として生まれ、
3歳で金沢に輿入れしたが24歳で逝去。
長男光高は第4代藩主、次男利次は分藩して
富山藩初代藩主、三男利治は同じく分藩して
大聖寺藩初代藩主となった。
菩提寺として当初葬られた天徳院
小立野4丁目に現存する。
10:48
第5代藩主・前田綱紀の正室(松嶺院)の墓。
保科正光(3代将軍家光の異母弟)の娘。
10:51
階段を下ると2つの墓があった。
左側は第7代藩主・前田宗辰の正室(梅園院)の墓。
10:51
道の先は、35分前に通れなかった場所。
10:54
第7代藩主・前田宗辰の墓。
在位わずか1年半で逝去したため
治世における実績は特にない。
11:00
松嶺院の墓の先にある坂を下る。
11:01
下り切ったところで振り返る。
11:01
左はさらに下る道、右は平坦。
ここは、45分前に通り抜けできなかった
場所へ通じていると思われる
左の道へ。
11:03
第4代藩主・前田光の墓。
11:04
第4代藩主・前田光高の正室(清泰院)の墓。
水戸徳川家初代・徳川頼房の娘で、
3代将軍家光の養女となった後光高に嫁いだ。
11:08|↑11:08|11:09
第3代藩主・前田利常の墓。
鳥居をくぐって右手には井戸跡のような穴が開いていた。
11:17|11:18
利常の墓からさらに下ると、
同じ幅の左折の道と細い下り道に分かれた。
ここは先に左折する。
11:19
第9代藩主・前田重靖の墓。
宝暦3年(1753年)に藩主となるもわずか5か月後に
19歳の若さで逝去。
11:21
第8代藩主・前田重熙の墓。
6代藩主・吉コの次男で、
兄宗辰(7代藩主)の早世により藩主の座を継ぐも、
6年後に25歳で夭折。
11:27
第10代藩主・前田重教の墓。
兄たちより長生きし、農政改革や産業統制などを
実施したが、金沢の9割を焼いた宝暦の大火や
天明の大飢饉に見舞われるなど治世は多難だった。
11:30
約75分前に引き返したチェーンの反対側に出た。
すでに、前田家墓所の入口に着いてから
1時間半以上が経過していた。
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