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旅の記録2016GW北陸編 | |
金 沢 (その2:野田山墓地の続き→大乘寺) |
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Kanazawa (Part 2:Nodayama→Daijōji Temple) |
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2016年5月4日 | ||
<金 沢(その1) | 金 沢(その3)> |
ここではデジタルカメラのタイムスタンプによる時刻を表示します。
背景色は残り時間(帰りの新幹線の発車時刻17:51まで)を表します。
11:30=残り6時間以上
13:30=残り3時間以上、6時間未満
15:30=残り1時間以上、3時間未満
17:30=残り1時間未満
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11:35(前田家墓所入口到着時刻[9:59]から1時間36分経過) 道幅の細い下り坂をそのまま進むと一般の墓地に出てしまう。 こちらに来た目的は進行方向右側にある墓所。 |
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11:36 入口には「長家之墓所」。 前田家の宿老・加賀八家の一にして かつては能登畠山氏の重臣だった 長家の墓所である。 先に見た他の八家の墓所に比べて よく手入れがされているように見えた。 |
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←11:38|11:46→ 入口近くにあった「累代之墓」。 正面からは周辺にある"個人用"の墳墓と 同じ形に見えたので、 2人目以降を葬る際には、 まさか掘り返したりするのかと思ったが、 裏にまわると右の画像のようになっていた。 |
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「長家之墓所」入口手前の腰掛けで一休みした後、前田家墓所に戻った。 | ||
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11:54 第5代藩主・前田綱紀の墓。 父である4代藩主光高が若くして亡くなったため 3歳で藩主の座を継ぎ、当初は祖父・利常の、 利常亡き後は岳父・保科正之の後見を受けたものの、 内政に治績が多く、加賀藩中興の英主といわれる。 |
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12:00(前田家墓所入口到着から2時間1分経過) 第6代藩主・前田吉德の墓。 5代藩主綱紀の四男だが、兄はいずれも死産もしくは 幼くして亡くなったため、吉德が後継となった。 財政再建のために大槻朝元を起用して 藩政改革を行ったが、後の加賀騒動の遠因となった。 |
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12:04 第3代藩主・前田利常の四女(真照院)の墓。 八条宮智忠親王の妃となったため、この墓のみ宮内庁の管轄となっており、 「国史跡 加賀藩主前田家墓所」の指定範囲外である。 |
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12:06 突き当りには上り階段。 墓所入口近くの階段よりは緩やかに見える。 |
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12:06 来た道を振り返る。 左に見える墳墓が八条宮智忠親王妃の墓。 |
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12:10 階段を上る。 途中の分かれ道の先には 11代藩主治脩の子で 12代藩主斉廣の養嗣子となった 前田利命の墓がある。 |
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←12:16|12:17→ さらに上ると、また二手に分かれる。 今度は上り階段のほうが分岐する線形。 直進すると、まずは 第11代藩主・前田治脩の正室(法梁院)の墓。 そして奥には・・・ |
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12:20 第11代藩主・前田治脩の墓。 6代藩主吉德の十男として生まれ、 一時は伏木(高岡市)にある勝興寺の住職となったが、 兄である10代藩主重教から後継者として呼び戻された。 |
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12:24 次の分岐の先には 12代藩主斉廣の長女の墓があった。 |
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12:27 上ってきた階段を振り返る。 現地の案内図では階段はここまでのようだ。 |
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←12:28|12:27→ ということは、ここが最上層のはずだが、 右画像の説明板の後ろに見えるのは・・・ |
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12:28 このあたりの平場にある藩主の墓は1基だけ。 これまで紹介していない、前田家で最も有名な人たちの墳墓は 現地の案内図によればこの先だが、 その藩主の墓、そして説明板の後ろを見てから。 |
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12:29 第12代藩主・前田斉廣の墓。 現在、千歳台と称される土地に隠居所・竹沢御殿を造営。 御殿に付属する庭園は 依頼を受けた白河藩主・松平定信によって 「兼六園」と命名された。 芥川龍之介の短編小説「煙管」には 金の煙管を愛用する人物という設定で登場する。 |
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12:36 12代藩主斉廣の説明板の背後には 案内板に載っていない階段があった。 案内板設置後に増設されたが 書き足されていないということだろうか。 上がった先は今度こそ本当に最上層で、 さらなる階段等はなかった。そこには・・・ |
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12:37 第17代・前田利建(侯爵)の墓。 父である第16代・前田利為(侯爵・陸軍大将)の墓は ここになかった。 |
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12:39 累代之墓。 平成8年に第18代・前田利祐によって建立され、 18代以降はここに葬られる予定。 |
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12:48 20分前に撮影した道を進むと、 大きな墳墓が見えてきた。 周りには堀のようなものも掘られている。 |
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12:49 振り返ると、来た道とは別に 左へ道が分かれている。 もちろんそちらには踏み入らなかった。 |
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12:50 前田利久の墓。 利久は尾張荒子城主前田利春の嫡男として生まれ、父の跡を継いだが、 永禄12年(1569年)に織田信長の命により弟の利家に家督を譲った。 利家が加賀の太守になると金沢に迎えられ、利家の出陣時は 留守役として金沢城の守備を代任したこともあったという。 天正15年(1587年)に亡くなると、利家によってこの場所に葬られ、 その後野田山に前田家の墓所が造営される発端となった。 |
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12:52 利久の墓の前から、これまた現地案内板にない 道が延びている。 土にも苔にもおおわれていないことから、 これも近年に作られた道なのだろうか。 |
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12:53 道を下り切って振り返り、利久の墓方面を見る。 利久(の墓)から見下ろせるこの場所の左右に、 前田家墓所のメインというべき2名の墓があった。 |
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12:53(前田家墓所入口到着から2時間54分経過) 初代藩主(藩祖)・前田利家の墓。 事績については、詳細に述べられているであろう 書籍や他のサイトを参照いただきたい。 利家が金沢城(尾山城)に入城した 天正11年4月25日(1583年6月14日)を記念し、 利家を祭神とする尾山神社では6月第1土曜に 「封国祭」が、金沢市中心部では6月第1金曜から 3日間「金沢百万石まつり」が行われる。 |
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12:56 藩祖・前田利家の正室(芳春院)の墓。 NHKの大河ドラマ 「利家とまつ~加賀百万石物語~」の 主役となったほか、 戦国時代を舞台としたゲームの キャラクタにもなっている。 |
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12:58 こちらは現地案内板に載っている道。 案内板設置当時はこの道を通って 一番奥にある利家夫妻の墓に向かわせる導線だったのだろうか。 この上り坂の先には・・・ |
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13:01 第2代藩主・前田利長の正室(玉泉院)の墓。 織田信長の四女で、天正9年(1581年)に 当時越前府中城主だった利長に嫁いだ。 利長の死後は利長の隠居所だった高岡城から 金沢城西の丸に移り、元和9年(1623年)に逝去。 死後、西の丸にあった屋敷は撤去されたが、 その後屋敷跡付近は院号にちなんで 玉泉院丸と呼ばれ、庭園が造られた。 明治維新後庭園は潰されて、昭和期には 石川県体育館が建てられたが、平成20年に 取り壊された後、平成27年に庭園が「再現」された。 |
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13:02 前田利久の墓の前まで戻って、 背面から前田利家の墳墓を撮影。 |
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13:03 これも現地案内板にはない、 玉泉院の墓の前を横切って延びる道を進む。 途中、五輪塔などの群れがあったが、 あまり観光向けでない場所のためか 説明は一切なし。 |
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13:04 藩祖・前田利家の四女(樹正院)の墓。 一般には「豪姫」として知られる。 菩提寺は野町にある大蓮寺。 |
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13:05 藩祖・前田利家の七女(春香院)の墓。 細川忠興の嫡男・忠隆に嫁いだが離縁され、 後に前田家の重臣村井長次に再嫁した。 |
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←13:09|13:08→ 駐車場に出た。 車で山道を上ってきた場合はここ(←)が終点。 この上り坂(→)の先からが 「国史跡 加賀藩主前田家墓所」。 |
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13:13 この奥には前田利家の六男・前田利貞の墓がある。 |
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13:16 前田利家の長女(春桂院)の墓。 同族(後に対馬守家といわれる)の前田長種に嫁いだ。 利貞と春桂院の墓は他と違い、 土盛りの手前に石廟が設けられている。 |
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13:18 最後に、第2代藩主・前田利長の墓。 野田山墓地入口に着いてから4時間、 前田家墓所入口から約3時間20分で一通りの見学を終えた。 |
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←13:38|13:39→ 坂を下りて、次の目的地は東香山大乘寺。 弘長元年(1261年)に 加賀介(加賀国衙の次官)の冨樫家尚が 野々市に曹洞宗の寺として建立したが、 後に禅寺へ改められた。 慶長4年(1599年)に石浦郷 (金沢市中心部の石浦神社があるあたり) へ替え地となり、さらに元禄10年(1697年)、 現在地に移転した。 |
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←13:43|13:44→ 総門(黒門)へ延びる参道。 傍らには「不許葷酒入山門」の結界石が 建っている。 |
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13:45 その色から通称・黒門ともいわれる大乘寺総門 (石川県指定文化財)。 額に記されている「金獅峯」は、東香山とは別の山号。 |
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13:45 総門をくぐる前に、墓所を見に行く。 |
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←13:46|13:47→ 陸軍大将で、内閣総理大臣も務めた 林銑十郎および親族の墓。 右画像の右側が銑十郎の墓。 |
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13:51(残り4時間) 十二義士墓所。 加賀藩家老・本多政均が明治2年に暗殺され、 その後明治4年に政均の家臣だった12人が 政均暗殺の実行犯を殺し、仇討を果たしたが、 12人は明治政府より切腹を命じられた。 その12人がここに葬られている。 明治6年に「復讐を厳禁する」布告が発布されたことから (合法的なものとしては)「日本最後の仇討ち」 ともいえる。 (※上記布告以後も非合法な仇討ちは行われた。) |
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13:55 加賀藩家老本多家新墓所。 野田山にあった他の加賀八家の墓所は 特に立ち入りを制限していなかったが、 ここはご覧の通り門が閉ざされていた。 |
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14:00 境内にはかつて能登国の守護だった 畠山家の墓所もあった。 |
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14:02 黒門をくぐり、内側から撮影。 |
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←14:03|14:04→ 「赤門」こと大乘寺山門(石川県指定文化財)。 山号「東香山」を記した大額を掲げる。 左右には仁王像が設置されている。 |
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←14:06|14:08→ 「大雄殿」の大額を掲げた大乘寺仏殿 (国指定重要文化財)。 |
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近隣(といっても徒歩30分以上かかりそうだが)には加賀国の守護冨樫政親が一向一揆に敗れて自害したといわれる高尾城跡や
冨樫氏の墓所といわれる御廟谷もあるようだが、そちらに行く時間も体力も残っておらず、市内中心部に戻ることにした。
大乘寺から一番近いバス停は「長坂台」だが、次のバスは14:12発。
4分でバス停まで行くのは無理で、その次は14:52発。これなら余裕だが、逆に数十分待たされる可能性もある。
次善の策として、野田山墓地まで来たときにバスを降りた「野田東」バス停ならどうかと調べると14:36発がある。
山側環状に出て道沿いに進めば、途中からは来た道を戻るだけで道には迷わないが、間に合う確証はないし、
これを逃すと最大40分待ちの大幅ロスを食らう羽目になる。
それでも後者に賭けて、山側環状沿いを東に向かって歩き続けた。
数時間前に足を踏み入れた野田山墓地の入口を確かめる余裕もなく、ひたすら歩く。
そして、「野田東」バス停が見えたところで、なんと乗ろうとしていたバスがやってきた。
バス停に向かって必死に走ると、一旦自分を抜き去ったバスが「野田東」バス停で停車して待っていてくれた。
なんとか数十分のロスを回避し、バスで金沢市中心部へ。<次のページへ続く>
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