旅の記録2017GW上信越・佐渡編
飯 山
(その1:JR北飯山駅→飯山城本丸)
[長野県飯山市]
Iiyama
(Part 1:JR Kita-Iiyama station→Iiyama castle)
2017年5月1日(1日目)
1-1 飯 山その2

旅の記録2017GW
上信越・佐渡編
1日目 2日目 3日目 4日目
飯 山1 渋 峠 直江津
佐 渡1
村 上
飯 山2 湯田中
渋温泉
金 津
飯 山3 佐 渡2 鳥屋野潟

2017年のゴールデンウィーク(大型連休)は5月1日と2日が現場の休業日となったので、4月29日が土曜かつ祝日(昭和の日)のため昨年より1日減ったものの9連休。
旅行の実施日は世間一般の「ふるさとや行楽地へ向かう人たち」および「ふるさとや行楽地からのUターン」を避けるため、まず土曜日曜(4/2930、5/67)を外した。
さらにいろいろと検討を重ねた結果、5月1日(月/平日)〜5月4日(木/みどりの日)の3泊4日となった。


5月1日(月)、いつもの旅行より遅く午前9時過ぎに家を出る。
新宿駅から埼京線の新宿始発各駅停車大宮行き電車に乗り、終着の大宮まで乗り通した。

[現在地:大宮駅(埼玉県さいたま市大宮区)]
大宮駅新幹線コンコースにはH5系、E6系、E7系の先頭車の模型が並べられていた。
大宮から乗車した金沢行き北陸新幹線「かがやき527号」はE7系だった。
かがやき527号は大宮からノンストップで長野に到着。
長野からはしなの鉄道(北しなの線)を経由するため、[区]東京都区内からの「乗車券(幹)」は新幹線特急券とともに早くもここでお役御免。
コンビニ「NewDays」で飲食物を補給すると、改めて長野からの乗車券を購入して在来線の改札口を通った。
[現在地:JR長野駅在来線ホーム(長野県長野市)]
4番線ホームで飯山線の列車を待つ。
2番線にしなの鉄道の電車(JRのロゴがあったところにしなの鉄道のロゴを被せている)が入線した後、4番線に入線した越後川口行き普通列車はなんと、快速「おいこっと」用のキハ110系だった。
北飯山駅で下車し、越後川口行き普通列車を見送る。
北飯山駅は単式ホーム1面1線。
構内に豊野起点20.5kmのキロポストがある。
ただし、冬季に積雪で埋もれないようにとのことなのか、だいぶ高い位置にある。
北飯山駅の駅舎。
といっても無人駅のため改札ラッチはなく、事実上の「待合室」。
信濃平方のホーム端。
この不自然な柵の切れ目からして、有人駅だったころにはこちらに改札口があったのではないかと思わせるが、画像検索で昔の写真がヒットしないため確証はない。
当初はすぐに飯山城跡へ行く予定だったが、駅前にあった地図を見て1か所寄り道をすることにした。
「鉄道開通以前は越後との物産の移出入でにぎわった」という飯山街道を北に進む。
傍らには梵字に加えて「秋葉山」と刻まれた碑が建っている。
この辺りの地名は「一里塚」というらしいが、碑の乗っかっているところがかつての一里塚かどうかは定かでない。
ここで飯山街道から分岐する道へ進路を変え、奥に見える橋を渡る。
皿川に架かる英岩寺橋を渡る。
←上流方向|下流方向→
皿川はここから500mほど東で千曲川に注ぐ。
橋を渡った先は、橋の名にもなっている長峯山英岩寺(曹洞宗)。
鎌倉時代から戦国時代にかけて飯山城主泉家の菩提寺だった頃は江岸寺と称していたが、泉家没落後の文禄4年に栄厳寺と改称、安永年間に現在の寺号になったという。
境内には上杉謙信の家臣で「鬼小島」の異名を取ったという小島弥太郎の墓がある。
現地の説明板によると、川中島の戦いの最中に弥太郎を含む上杉謙信主従数騎が敗走し、千曲川の安田の渡しを越えて市ノ口※から小佐原に差し掛かったところで、深傷に耐えかねた弥太郎は主君の無事を祈りながら割腹して果てたという。
なお、隣には正受菴五世天龍東溟の墓碑がある。
※英岩寺周辺は市ノ口地区にあたる。
寄り道を終えて当初の予定通り飯山城跡へ。
長野県飯山高等学校(旧飯山北高等学校)の校地南側にある水路は飯山城の名残だろうか。
中央分離帯付きの広い道の先に、飯山城跡。
ここは北中門跡。
西側には堀があったらしいが、現在の飯山城跡の周りに堀は残されていない。
北側には外郭があったらしいが、現在はご覧の通りグラウンドになっている。
北中門から登城する道の西側(向かって右側)には土塁が築かれ、東側(向かって左側)は切岸になっている。
このまま登城道を進まず、平地にある堀跡の舗装路を歩く。
城山の西側に残る石垣。
上に見える建物は弓道場。
石垣の一部には矢穴が付いた石が使われていた。
突き当たりまで進んで左折すると、切り返した先の帯曲輪に「岩井備中守信能公之碑」と「復元城門」がある。
岩井備中守信能は上杉景勝の家臣で飯山市柳原地区にあった山口城の城主だったが、景勝から飯山城代を命じられると飯山城の整備や城下町形成に尽力した。
碑は飯山城築城440年および飯山市の市制施行50周年にあたる平成16年に建てられた。
「復元城門」は飯山市柳原南条の丸山家に残された長屋門を移築したもので、飯山城に関係する門らしいが、城内の門か上級武士の住宅の門かはわからないという。
「復元城門」の向こうの帯曲輪。
「復元城門」を裏側から撮影。
「長野県スキー発祥の地」の碑。
明治45年に、妙専寺の住職で飯山中学校(旧制)の体育教師をしていた市川達譲が新潟県の高田でテオドール・レルヒ少佐のスキー指導を受け、飯山に帰って城山の西斜面から飯山中学校まで滑走してみせたことが長野県におけるスキーの発祥とされる。
西曲輪。
かつて飯山市民会館が建っていたが、平成27年11月をもって閉鎖され、平成28年度に解体された。
後継施設はJR飯山線飯山駅跡地※に文化交流館「なちゅら」が造られている。
※飯山線の飯山駅は北陸新幹線長野−金沢間開業に伴い、長野寄りに300m南の北陸新幹線との交点へ移転した。
丁字路を左折する。
右折した先には南大手門跡があったらしいが、特に遺構はないようなので行かなかった。
上り坂の向こうには「屋台村」が見える。
後日調べたところ、桜まつりがこの日まで行われていたらしいが、「屋台村」は休業状態だった。
上ってきた坂を振り返る。
奥に鳥居が見える石段を上る。
ここが飯山城の本丸(本城)。
「葵神社」が鎮座している。
葵神社は明治維新の際に飯山藩主だった本多氏(豊後守系)の中興の祖・本多広孝を祭神としており、拝殿には本多氏の家紋「立葵」の入った幕が張られていた。
半分くらい石垣に覆われた土塁。
トラロープの手前まで階段を上ってみると・・・
「崩壊の恐れがあるため、修復されるまで石垣には登らないでください」旨の注意書きがあるため、階段途中から土塁を撮影。
土塁の反対側には桝形虎口があった。
本丸の桝形虎口が飯山城最大の見どころであることは事前調査にて知っていたが、訪問当時現地にあった案内板ではどこにあるのか分かりづらかったので、不意の遭遇だった。
本丸の北側。
葵神社の拝殿を別アングルから撮影。
桝形虎口を別アングルから撮影。
左画像は本丸門、右画像は本丸から俯瞰した二の丸(二の曲輪)。
本丸の東側と葵神社の本殿。
東側には裏門(不明門)があったらしいが、その跡を見つけることはできなかった。
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