出 石Part 1
[兵庫県豊岡市]
いずし Izushi(Part 1)
2018年4月29日(1日目)
1-1 出 石Part2>
Izushi(Part 2)

[旅の記録2018GW]三丹+瀬戸内への旅
1日目 2日目 3日目 4日目
1-1 出 石1 2-1 小天橋 3-1 神子畑1 4-A1 塩 飽1
出 石2 2-2 豊 岡 神子畑2 塩 飽2
2-3 明 延1 神子畑3 4-A2 下津井
明 延2 3-2a 庭 瀬 4-B ? ?
3-3a 水 島 4-C ? ?
3-2b ? ?

今回の旅行は当初「2泊3日但馬への旅」として計画していたが、いろいろな変更を経て3泊の旅行になった。
そして、初日も単なる「移動日」から最終的には「但馬の小京都」こと出石行きの計画が設定された。
なお、タイトルは「三丹+瀬戸内への旅」だが、三丹(但馬・丹波・丹後)のうち丹波は通過のみである。

[現在地:JR京都駅(京都市下京区)]
まずは東海道新幹線の新大阪行き「のぞみ309号」で京都駅までやってきた。
京都で2010年8月以来の山陰本線への乗り換え。
ゴールデンウィーク2日目で混雑する京都駅構内を通り、30番台の山陰本線ホームに到着。
乗車する列車は31番のりばに停車中の287系、城崎温泉行き特急きのさき5号」。
[現在地:豊岡駅(兵庫県豊岡市)]
豊岡駅できのさき5号から下車。
わずかの停車時間の間、287系と289系が並ぶ。国鉄時代からの駅名標はまだ健在。
東口に出て、出石行きの全但バスに乗車。
終点「出石」(兵庫県道2号沿いにある全但バスの出石営業所)に到着。
南側から回り込んで豊岡市営西の丸駐車場を突っ切ると、その先に・・・
出石城跡の石垣が見えた。
奥には"復元"された隅櫓も見える。
西の郭の石垣。
かつては出石城の堀の役目も担っていたであろう谷山川。
ここでは西に流れているが、全但バス出石営業所付近で北に進路を変え、出石町弘原で出石川に合流する。
昭和10年頃に流路が変更される前はここよりも北を流れていた。
谷山川と登城橋、登城門。
谷山川に架かる登城橋。
平成6年に架けられた。
上記の通り、現在の谷山川は昭和になってから付け替えられたものなので、橋も江戸時代にはここになかった。
登城橋から見た谷山川(上流方面)。
登城門脇の石垣。
登城門をくぐり、振り返る。
ここはかつて埋門だったところで、登城門は橋と同じ平成6年に造られた。
階段を上がったところで二の丸の石垣と本丸の西隅櫓を撮影。
二の丸の北側は「下の郭」。
二の丸の西側が「西の郭」。
西の郭から二の丸の石垣を撮影。
延岡城の「千人殺しの石垣」に少し雰囲気が似ている。
別アングルから二の丸の石垣と本丸の西隅櫓を撮影。
西の郭(南側から北方向を撮影)。
二の丸への階段を上がりつつ、本丸の西隅櫓を撮影。
石垣を接写してから、二の丸へ。
二の丸から本丸の西隅櫓を撮影。
二の丸から西の郭を見下ろす。
整備されてしまっているので、門の跡などは見つけられなかった。
二の丸。
本丸との間には渡り櫓があったらしいが、木に隠れて櫓跡は見えなかった。
進行方向右手に石垣が残っているので、この道も江戸時代から西の郭や二の丸から本丸への通路として使われていたのだろうか、と考えながら本丸へ。
なお、右画像の右に見える最上段(稲荷曲輪)への道は結構足元が不安定に見えるが、老婦人が2名平気な様子で上っていった。
上ってきた道を振り返る。
ここが出石城本丸。
だが最上段ではなく、その上にも曲輪がある。
本丸西隅櫓。
現地の説明板には昭和43年「復元」とあるが、観光案内所にあったパンフレットでははっきりと「出石町民の寄付により建設された模擬建築」と書かれている。
駐車場からも見えるため、「天守閣」のない出石城において象徴のようなものになっている。
本丸に鎮座する感応殿。
祭神は出石藩主仙石氏の祖といわれる仙石秀久で、廃藩後の明治時代に旧出石藩士らによって建立されたという。
本丸東隅櫓。
西の隅櫓とともに昭和43年に建てられた模擬建築。
この辺りが本丸御殿跡だろうか。
最上段の稲荷曲輪には先ほどの道でなく、赤い鳥居が立ち並び稲荷神社の参道になっている階段を進む。
この道は江戸時代から存在したらしいが、現在のように157段の石段と37基の鳥居が整備されたのは明治時代になってからである。
右画像はその途中で稲荷曲輪の石垣を撮影したもの。
稲荷曲輪へ渡る橋が見えてきた。
稲荷曲輪へ行かずに先に進む場合、その先は但馬守護山名氏最後の本拠地であった有子山城跡への登山道となる。
有子山の標高は321mと、登山としてであれば難しくないところだが、それでも岩場や急坂があるため、登る場合はそれなりの準備が必要。
但馬守護山名氏はそれまで出石神社の北にあった此隅山城(子盗城)を本拠としていた。
永禄12年(西暦1569年)に但馬に侵攻してきた羽柴秀吉によって落とされ、その後に織田家の従属勢力として但馬に復帰した山名祐豊は、新たな本拠として天正2年(西暦1574年)に有子山城を築いた際に旧本拠の"子盗"を嫌って"有子山"と名付けたという。
その有子山城も天正8年(西暦1580年)に織田家によって落とされ、山名家による但馬支配は終焉を迎えた。
稲荷曲輪に鎮座する有子山稲荷社。
小出吉英の時代に建立されたらしいが、その由来は有子山城にあった稲荷社を移したとも、吉英が岸和田から移封された際に岸和田の稲荷社の分霊を勧請したともいわれている。
稲荷曲輪の南側を撮影。
画像の左端から(奥側の)狛犬ならぬ狛狐のあたりで切り返して山上へ伸びる道のようなものが見えるが、かつての登城道だろうか。
稲荷曲輪の北側。
出石城の本丸以下および出石の町並みを展望できる格好の場所とあって、この日もここまで上ってきた人はほぼ例外なくその眺めを楽しんでいた。
稲荷神社の本殿。
稲荷神社の西側から東方面を撮影。
稲荷曲輪からの出石城本丸、そして出石の町並みの眺め。
稲荷曲輪には井戸跡があった。

新円町発2015列車の旅
[旅の記録トップ]
<前のページ
---
旅の記録2018GW
三丹+瀬戸内への旅
次のページ>
出石Part2
Travel on 2015 Train from New Yen Town