出 石Part 2
[兵庫県豊岡市]
いずし Izushi(Part 2)
2018年4月29日(1日目)
<出 石Part1 1-1 小天橋>
Izushi(Part 1) Shōtenkyō

[旅の記録2018GW]三丹+瀬戸内への旅
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1-1 出 石1 2-1 小天橋 3-1 神子畑1 4-A1 塩 飽1
出 石2 2-2 豊 岡 神子畑2 塩 飽2
2-3 明 延1 神子畑3 4-A2 下津井
明 延2 3-2a 庭 瀬 4-B ? ?
3-3a 水 島 4-C ? ?
3-2b ? ?
出石城の最上段・稲荷曲輪からの眺めを楽しんだ後、参道を下りていく。
本丸と同じ高さで東側に曲輪のようなものがあったので、寄ってみることにした。
入口は向かって左側が石垣、右側が土塁と統一されていない。
ここは「山里曲輪」といわれていた曲輪。
南側にも石垣が残っていた。
山里曲輪入口左側の石垣。
山里曲輪の周りにある土塁。
山里曲輪の中。
石垣と土塁以外にほとんど遺構はなさそう。
東端には出丸のような小さいスペースに降りられそうな坂道があったが、戻れない場合のリスクを考えて下りなかった。 山里曲輪北側の石垣。
このあたりに庭園でもあったのだろうか。
本丸東隅櫓が乗っかっている石垣。
山里曲輪北側の石垣。
二の丸から見上げた本丸東隅櫓。
下の郭から二の丸への登城路と桝形虎口。
二の丸東側の石垣。
左画像はお城坂(有子山稲荷社参道)から、右画像は下の郭から撮影。
下の郭から見上げた、二の丸への登城路と桝形虎口跡。
現在の谷山川より北側、観光案内所や駐車場、皿そば屋があるあたりはかつての三の丸。
近世出石城跡の背後にある有子山。
ズームすると、山頂近くに有子山城主郭の石垣と鯉のぼりが見えた。
辰鼓楼(しんころう)。
高さ約13mで4層構造。
「時を告げる太鼓櫓」を意味する名の通り、明治4年に建てられた当初は最上層で太鼓を鳴らして時刻を知らせていたが、明治14年に城下町の医師・池口忠恕が病気の全快祝いとして時計を寄贈し、以後は時計台となった。
辰鼓楼が乗っている石垣はかつて三の丸大手門の一部だったものである。
また、出石城の内堀はこの付近だけ残っているが、他は埋め立てられてしまった。
出石城跡から北上してきた「大手前通り」と東西に伸びる「宵田通り」との交差点。
北西の角には高福寺(浄土真宗本願寺派)がある。
交差点を右折して少し東に進むと、「出石史料館」がある。
江戸時代は鋳物、明治になってからは生糸を扱う商家だった福富家の住宅として使われていたが、第二次世界大戦後に福富家がよそへ移住したため出石町(当時)の所有となったという。
昭和52年に土蔵と離れを史料館として使用開始、平成9年に豊岡市指定文化財となり、翌年には史料館を旧福富家住宅全体に拡大した。
史料館見学後、市街地を離れ西へ進む。
まずは谷山川に架かる「大橋」を渡る。
続いて出石川に架かる「堀川橋」を渡る。
出石川は京都府福知山市との境にある三国山を源流とし、豊岡市内の「九日市上町」と「伏」に挟まれた地点で円山川に合流する。
堀川橋を渡ってさらに少し西に進んだこの場所は、豊岡市出石町福住の名もなき交差点。
全但バスの「福住」停留所があり、西(右画像の奥)に「出石グランドホテル」がある以外は特筆すべきもののない場所だが、この辺りが第二次世界大戦前に山陰本線の江原駅と出石を結んでいた「出石鉄道」の終着駅・出石駅の跡らしい。
そして、先行して当地を探訪したレポートによると、交差点から少し北に進んだ道沿いにある空き地の奥、民家のトタン壁に近いところで雑草に埋もれているコンクリートの構造物(右画像の中央)が出石駅のプラットホームだったものだという。
再び堀川橋と大橋を渡り、出石の市街地に戻ってきた。
但馬信用金庫出石支店前には「おりゅう灯籠」と呼ばれる、かつてこの辺りに川船の船着き場があった際に灯明台として用いられた灯籠がある。
出石城三の丸西門の跡といわれる石垣。
出石家老屋敷。
出石藩主仙石氏の支族・仙石式部家出身で1500石の知行を受けていた大老・仙石左京久寿の居館跡。
出石城内に残る唯一の江戸時代の武家屋敷であるという。
外からは平屋に見えるが、隠し2階がある。
左京は出石藩の財政再建のために守旧派である同じ仙石氏支族・仙石主計家出身の年寄・仙石造酒助久恒らを追放し、封禄削減などの政策を打ち出した。
しかし文政7年(西暦1824年)に(仙石氏としての)第6代出石藩主・仙石政美が参勤交代中に麻疹を発症して江戸屋敷で亡くなると、その後継を巡り、左京が実子の小太郎を擁立して主家乗っ取りを企てたと守旧派が幕府に訴えた(いわゆる「仙石騒動」)。
天保6年(西暦1836年)に寺社奉行・脇坂安菫らの裁定で左京は獄門と決まり、江戸鈴ヶ森で処刑された。
また、小太郎は八丈島に流罪となり、途中立ち寄った三宅島で病死したという。
兄・政美の後継となった第7代藩主・仙石久利も騒動の責任を取らされる形で5万8千石から約3万石に減封。
老中松平康任(石見浜田藩主)も弟の娘が小太郎に嫁いでいたことから関係者としての責任を問われ、老中を辞任し隠居した。
最後にもう一度出石城跡(下の郭・二の丸)の石垣と有子山を撮影すると全但バス出石営業所に戻り、17時25分発の豊岡駅行きバスに乗って出石を後にした。

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