[旅の記録2018GW]三丹+瀬戸内への旅 | |||||||
1日目 | 2日目 | 3日目 | 4日目 | ||||
1-1 | 出 石1 | 2-1 | 小天橋 | 3-1 | 神子畑1 | 4-A1 | 塩 飽1 |
出 石2 | 2-2 | 豊 岡 | 神子畑2 | 塩 飽2 | |||
2-3 | 明 延1 | 神子畑3 | 4-A2 | 下津井 | |||
明 延2 | 3-2a | 庭 瀬 | 4-B | ? ? | |||
3-3a | 水 島 | 4-C | ? ? | ||||
3-2b | ? ? |
豊岡駅に戻ってきたが、明延へ行くバスに接続する列車は1時間半以上先の11:02発。
時間調整のため、足にあまり負担を掛けない範囲で豊岡駅付近を散策することにした。
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大開通り(豊岡駅通商店街 愛称:サンストークアベニュー)を東に進むと、豊岡市役所がある・・・と言いたいところだが、こちらは旧庁舎。 現在は豊岡市立交流センター「豊岡稽古堂」(2階は豊岡市議会議場)として会議や展覧会などのイベントが行われる。 前庭には子供向けの遊具が設置されており、この日も子供が遊んでいた。 |
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現在の豊岡市役所の横を北上すると、かつて「国道上のロータリー交差点」として珍しがられた「寿ロータリー」がある。 パリのエトワール広場に範をとって造られたというロータリーの中心は「寿公園」となっていて、豊岡出身の鉱業家・中江種造(大正10年に豊岡市の上水道建設費全額を寄付した)の銅像が建つ。 |
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ロータリーからは北・北東・東・南・南西・西の6方向に道が延びている。 そのうち西と北東の道が国道426号だったが、平成25年12月1日にバイパス開通に伴う経路変更で豊岡市道に降格した。 なお、道路交通法上の「環状交差点(ラウンドアバウト)」はロータリーの一種だが、一時停止せずに徐行して進入する。 寿ロータリーは右画像のように一時停止の標識があるため、ラウンドアバウトではない「円形交差点」として区別される。 (神戸新聞NEXTのこちらの記事を参照) |
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寿ロータリーで折り返して今度は南へ。 兵庫県立豊岡高校と神戸地方裁判所豊岡支部の裏にある神武山公園。 ここは豊岡城の跡らしいが、遺構はほぼ皆無らしいので園内には行かなかった。 |
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豊岡城は山名氏が但馬守護だった時代には「きざきじょう」(漢字表記は「亀崎城」「城崎城」「木崎城」などの揺れがある)と称されていたらしい。 天正8年に織田家の羽柴秀吉が但馬に進出すると宮部継潤が城主となった。 継潤は2年後に鳥取城主へ転じ、その後も豊臣秀吉の天下取りに伴って次々と城主が交代、慶長3年(西暦1598年)に秀吉の親戚にあたる杉原長房が豊後木付(大分県杵築市)から入城すると、関ヶ原の戦いで西軍に与したものの安堵されるなど、杉原氏が約半世紀の間豊岡の領主だった。 長房の子重長が寛永21年(西暦1644年)に亡くなると一旦無嗣断絶とされ、正保2年(西暦1645年)に重長の甥にあたる重玄(しげはる=旗本竹中重常の三男)が豊岡1万石に封ぜられて杉原氏3代藩主となったが、重玄も嗣子なく承応2年(西暦1653年)に死去。 杉原氏断絶により豊岡は天領とされ、その際に豊岡城も破却されたという。 寛文8年(西暦1668年)に丹後田辺(京都府舞鶴市)から京極高盛が3万3千石で移封されてきた際には、神武山の北麓に豊岡陣屋を設けて藩政の拠点とした。 |
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めぐみ公園にある豊岡藩庁の門。 現地に説明板がないためその歴史的価値を認知されていないのか、無造作にイベントの告知ポスターが張られていた。、 |
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豊岡陣屋跡に建つ豊岡市立図書館。 東側には旧豊岡県庁正門がある。 この門は明治3年に久美浜県庁の正門として造られ、翌年久美浜県が豊岡県に吸収合併された際、現在地に移設された。 個人的な意見として、明治時代の県庁門より近世の藩庁門が軽い扱いをされているのはどうかと思う。 |
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北麓からの神武山公園の入口。 ここで豊岡観光を切り上げ、豊岡駅に戻った。 |
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